Sermon – “本物の自制心”

アーチー先生

17 October 2021

ヤコブの手紙 3:1-12 (13-18)

本物の自制心

ヤコブの手紙を探求する時、ヤコブがとても実践的な人であるのがわかります。彼の手紙は、クリスチャンの信仰に生きるために実践できることが書かれています。この手紙の核心のメッセージをあげるとしたら、2章17節「信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは、死んだものです。」でしょう。もしそのメッセージがわからないとすれば、ヤコブは2章26b節でも言っています。「行いから離れた信仰は、死んでいるのです。」別の訳では、「行いのない信仰は、死んでいるのです。」今日の箇所である3章を開くと、私たちに話すことの重要性を再確認させることで、ヤコブがこれを私たちの生活に適用させようとしているのが分かります。何度も何度もヤコブは「舌」という言葉を使います。舌と聞いて思い浮かべるのは、口の中のベロですが、ヤコブはもっと深い意味で使っています。「舌」は、私たちの考えやイメージ、望みを言葉にし、それらの言葉が他人に話されているか、またそれらの言葉が心の中にあるかどうかにかかわらず、静かに私たちの思いを形作ります。話される言葉は、他人と有意義な接触をするための主要な方法です。思いの中の言葉は、私たちの性格を発達させます。

ヤコブは、私たちの言葉が聖なる生活の鍵であると書いています。(v.1-5a) 初代教会の著名な教師であり指導者として、ヤコブの思いはまず教師へと向けられました。クリスチャンの教師の言葉は、教会で信仰を教える人であるか、また信仰を家族へ教える人であるかにかかわらず、受け手の思いに消すことのできない印象(良い印象でも悪い印象でも)を残します。ですからクリスチャンの教師の言葉は、神によって特別な精査を受けます。それは、神の真理を伝えるための言葉であるからです。しかし教師であれ何であれ「私たちはみな、多くの点で失敗するものです。」 (v.2) 罪は普遍的な人間の経験に留まります。そして言葉の罪はさらに際立ちます。私たちは、容易に噂話をしてしまうものです。急いで言葉を発して、すぐにまた後から反省して後悔します。これに照らして、イエスも、霊的成熟への重要な道は、私たちが言うことをコントロールすることだと言われました。

ヤコブは、この点を説明するために2つの例えを用いました。(3-5a) それらは、小さなことが大きな結果につながるということを教えています。口は体の中で小さな部分ですが、私たちが言葉をコントロールするなら、体もついてきます。あなたの家の電気系統の制御ボックスを思い浮かべて下さい。そこには多くのサーキットブレーカーがあり、そのそれぞれが家の各部分に使う電気をコントロールしています。これら一つ一つは、とても簡単に消すことができます。それから一つのメインサーキットブレーカーがあります。それは、家全体への電気の流れをコントロールします。そのブレーカーは、つけたり消したりするのが容易ではありません。人にとって、何を言うかを完全にコントロールすることはとても困難です。手や目や膝をコントロールするよりも難しいでしょう。沈黙することによって口をコントロールすることもできません。それよりも聖霊に私たちの口を明け渡すことによって、言葉をコントロールした方がいいでしょう。聖霊が私たちの言葉を導く時、神が私たちを一つの存在として意図された全体性を見つけることができます。

しかしそれでもヤコブは、私たちの言葉が大きな害となる可能性を警告しています。言葉は、思いや望みやプランの基本となり、私たちの生活のすべての場面に跡を残します。ですから私たちは、言葉が他人の害となることにいつも注意しておかなければなりません。良い言葉は、人生の中で多くの良いことができます。気持ちの落ち込んだ人を励まし、尊い行動へとかき立てることができます。人間の深い感情の表現を与えることができます。第2次世界大戦のヨーロッパにおける結果は、ウィンストン・チャーチルの言葉によって得たと言ってもよいでしょう。逆に、コントロールされていない言葉は、人の人生に大きな破壊力を持っています。子供たちや青年たちには「自己達成的予言」と呼ばれる現象があります。子供に「おまえは悪い子だ、希望がない、馬鹿だ」と言い続ければ、子供の人生は言われたようになります。逆に「おまえは良い子だ、よい可能性がある」と言い続ければ、その子の人生は達成されるでしょう。ヤコブが6節で書いているように、私たちの口は、善悪を問わず、言葉の受け手において物事を進めます。動き始めたら止めることはできません。

同時に私たちの言葉は、自分自身にも害となりえます。 (v.9-12)  私たちの口と言葉の最高の使い方は、神をほめたたえることです。神を創造主として、贖い主として、日ごとの糧の与え主としてあがめることです。口の最低の使い方は、他の人を「のろう」ことです。私たちが他人を「のろう」時、口頭でその人々を引き裂き、神を攻撃していることになります。愛する人も嫌う人も、全ての人間が神のイメージに造られました。ですから、人を「のろう」時、私たちが神にささげている讃美に矛盾し、それを撤回していることになります。私たちの神への礼拝の全てが無になります。それが自分自身の霊的な死へと導きます。

この箇所の中心には、率直な警告の中で希望の種があります。(v.7-8)  警告はシンプルです。私たちの言葉、口は人間ではコントロールできません。創世記3章の堕落の記録で、堕落の後の最初の罪は、言葉による罪であったことを覚えている必要があります。男は女を非難し、女は蛇を非難しました。人間的に言えば、その瞬間以後、口の完全なコントロールは不可能となりました。なぜなら完全なコントロールの下に置かれるほど口は決して十分に休まないからです。しかしこの同じ警告には希望があります。私たちの口は人間だけではコントロールできない。そしてこれは、私たちの生活の全ての場面で本当です。人間ではコントロールできないことを神にはできます。キリストの十字架は、私たちの言葉を贖う神の贈り物です。私たちの人生を十字架につけられ復活されたイエス・キリストのコントロールに明け渡す時、私たちの生活の一つ一つすべてを明け渡しています。それは、私たちの口と言葉も含まれます。キリストは、私たちが彼に無条件で差し出したことを贖います。そしてキリストが贖ったことは、聖霊が来てそれを持ち導かれます。聖霊がコントロールすることは、神の目的の道具となるのです。救い主に明け渡した時、私たちの口と言葉は、他人の破壊者となるのではなく、神の御国の建築者となるのです。