“Authentic Humility” – ヤコブの手紙 4:1-10 

「本物の謙遜」

ヤコブの手紙 4:1-10

      November 7, 2021 / CAN

Rev. Shihoko Warren

1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。5 それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、6 もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」 7 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。9 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。10 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。

序論

この秋から、私たちは「ヤコブの手紙」を1章ずつ学んでいます。今日は、4章から、「本物の謙遜」について共にみていきましょう。

私は、今年の初めから「50肩」になり、痛みで腕があがらず、自由にこの腕を動かすことができずにいます。着替えもままらない状態です。「50肩」は、はっきりとした原因はわからないようですが、肩の周りの筋肉の問題が原因だと言われています。フィジオセラピーと毎日の筋トレのおかげで、ようやく、最近、腕が少しあがるようになり、だいぶ腕を使えるようになりました。

改めて、「筋肉」というのは、私たちが生きていくために欠かすことのできない、重要な役割を果たしていると再認識しました。 「筋肉」が減少したり、「筋肉」に問題が生じると、私たちは、今までどおりに活動することができなくなります。立つ、歩く、座るなどという日常生活の基本的な動作さに支障をきたすだけでなく、さらには様々な病気にもつながると言われてます。「筋肉」が、私たちの体にとって、いかに重要であるかが分かります。

今回、「謙遜」について語っているヤコブ書4章を読んだとき、 「謙遜」は、まるで、私たちの信仰生活における「筋肉」のようだと思いました。 「謙遜」は、私たちキリスト者が日々生きていくために欠かすことのできない重要な要素です。 私たちのうちに、本物の「謙遜」がなければ、私たちは、神と隣人を完全に愛することはできません。また、神に完全に従うことも、神からの召しに従順になることもできません。 「謙遜」がなければ、現実を見極め、将来を展望することもできません。 「謙遜」がなければ、私たちは、神の国とは真逆であるこの世の価値観とサタンの力に、影響を受け続けてしまいます。 本物の「謙虚さ」が私たちのうちになければ、何1つとして、私たちは、神がよろこばれることをすることができません。

本論

ヤコブの手紙4章を見てみましょう。 ここでヤコブは、私たちが「謙遜」を追求していくことを強調しています。

ヤコブは、繰り返し、「謙遜」が私たちの信仰者の生活と共同体にとって、いかに重要であるかを教えています。10節「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださります。」

「謙遜」の反対は、「プライド」です。箴言13章10節はこう述べています。「プライドがあるところに、必ず争いがある」と。 「プライド」や「傲慢」は、私たちの生活や共同体における、争いと不和の根源です。

ヤコブの手紙4章は、「プライド」や「傲慢さ」を握りしめ、「謙遜」を求めないキリスト者たちへの、ヤコブの叱責で始まります。1節でヤコブは、こう叱責しています。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」

「プライド」は、自分自身を高くあげ、他者を裁き、耳を傾けず、自分の欠点を見ようとはしません。「プライド」は、神と人々との親密な交わりを断ち切り、その関係を破壊させます。

このような「プライド」や「傲慢さ」が、キリスト者のたちのなかに依然としてあることを見て、ヤコブは、聖なる怒りをもって、全身全霊で、私たちを「謙遜」への道へと導いています。 6節でヤコブはこう私たちに語っています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになるのだ」と

皆さんそれぞれにとって、「謙遜」や「へりくだる」とは、どういう意味でしょうか?

あなたは、どのように「謙遜」を定義しますか?

私たち日本人は、「謙遜」の文化を持ち、それを大切にしています。 「謙遜」は、最高の美徳の1つであると、幼いころから教えられ、私たちは人の前で、決して自慢などせず、謙虚であるようにと教育されてきました。

私の夫は、12年以上日本に住みましたが、どんなに生活に慣れ、日本を愛しても、1つだけいつもカルチャーショックを受けることがありました。それは、真実さえも否定しようとする日本の「謙遜の文化」の一面です。

例えば、誰かが「あなたは、本当に美しい家族、いい妻、いい子供がいて幸せですね」と言うと、たいていの日本人は、「とんでもない!ひどい愚妻で、ブスでデブで超ブサイクですよ!」 とか「いやあ、あの子は、本当に馬鹿なんです」などと答えます。これが、日本文化における「謙遜」の定義です。

しかし、これは、クリスチャンにとっては、本物の「謙遜」ではありません。日本人は、自虐的な「自己卑下」や 「自己否定」が、「謙虚」であることだと考える傾向があります。しかし、本当の「謙遜」は、それとは正反対の ものです。ヘンリーナウエンは、こう述べています。「謙遜とは、私たちが神の御目に高価で尊く、私たちは、神の愛のうちに造られたことを純粋に知り、感謝することである。私たちが、自虐的な「自己否定」から解放されて、霊的に成熟していくには、 神が私たちを「最愛の息子・最愛の娘」と呼ぶ御声に、常に耳を傾けていく勇気が必要である。また、この真理のうちに、いついかなる時も生きていくという決意が必要である。」

主イエス・キリストこそが、「本物の謙遜」の根源です。 キリスト者の「謙遜」は、イエスの「受肉」と「十字架」に啓示されています。キリストの十字架の受難のなかに、究極の「謙遜」の姿があります。

「ピリピ人への手紙」2章はこう述べています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(6-8節)

「創世記」の始まり以来、私たち人間は、自分たちの裸の姿を隠し続けています。霊性において、私たちは、神や他者に、自分の本当の姿が露わになることを恐れて、必至に隠そうとします。 私たちは「プライド」や「自己否定」で真実を隠そうとします。ある人々は、「プライド」を用い、また、他の人たちは、自虐的な「自己卑下」や「自己否定」を用いて隠そうとします。 結局のところ、「プライド」も「自己否定」も、同等であり、神の愛と真理を拒絶する深刻な障害であり、罪なのです。

どうか、イエスの十字架を常に思い出し、そして、自分自身をイエスの十字架のふもとに置いてみてください。十字架のふもとで、あなたは、なにが見えますか。

十字架にかかられている主イエスを見上げてみてください。主イエスが全裸で十字架にかかっておられる姿が見えませんか? イエスは、完全に裸です。イエスは、裸を隠そうと「プライド」や「自己否定」を決して用いることはなさらず、神の愛と真理の前で、裸でありつづけます。

イエスは、私たちのために、自ら完全に裸の姿となり、十字架にかかられたのです!

それなのに、なぜ、キリストを愛し、イエスに従うと告白する私たちクリスチャンは、今もなお、自分の裸を必至に隠そうと、「プライド」や「自己否定」を選び続けるのですか!なぜ、私たちは、今もなお、争いと不和の道を選び続けるのですか!なぜ、私たちは、今もなお、神の愛と真実を拒絶し続けるのですか!

私たちの主イエスが、私たちのために、全裸になってくださったのですから、私たちも、全裸になって、十字架の上でイエスと共に死のうではありませんか!これこそが、私たちがキリストの復活の命にあずかる唯一の道なのです!十字架の死がなければ、復活のいのちはありません!全裸にならなければ、本物の「謙遜」はないのです!

第1べテロの手紙5章はこう述べています。「皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」 からです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下に常にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるからです。」(5-6節)

この「謙遜を身に着ける」とは、これは実際パラドックス(逆説)であり、「主イエス・キリストと同じように、何も身に着けず全裸でいなさい」という意味です。

今日のヤコブの手紙4章は、私たちが「謙遜を身に着ける」つまり「全裸となる」ための具体的なアドバイスをしています。7節から10節を読みます。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」

9節「苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい」とは、イエスの「山上の垂訓」、「八福の教え」を指しています。 マタイの福音書5章で、イエスはこう私たちに語っています。

4 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められるからです。

5 柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐからです。

10 義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものだからです。

11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがあるからです。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのです。

結論

もし、私たちが心底、主イエス・キリストのようになりたいと望むのならば、私たちは、「プライド」と「自己否定」を手放し、「謙遜」の道を選び続けなればなりません。

「ピリピ人への手紙」2章1-11節を心に刻み続けて生きていくのです。、この箇所は、「本物の謙遜」への道へと私たちに方向を与える羅針盤です。パウロが私たちに語っている、この箇所を読んで終わります。

「あなたがたのうちに、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや

憐れみの心があるなら、 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを

満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも

十字架の死に至るまで従順でした。

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」 アーメン!