Sermon by Kelly Feb 21 2021 (Japanese)

先週は、灰の水曜日でした。この日は、レント(大斎節)の最初の日で、教会のカレンダーでは、イースターとキリストにより近づくための準備をするシーズン(期間)が始まります。多くの人が、レントの期間を、甘い物をあきらめ40日後のイースターでチョコレートをおいしく食べるための時と思っています。しかしこの期間は、私たち自身が自分の荒野に入る準備をするための招きです。それは神をより知るための、また断食し、祈り、他の人を許し思いやるための美しい招きです。私たちは、今日の福音書の箇所がレントの震源であることから、これを読むことによって、レントとこのシーズンの中心について学ぶことができます。

マルコの福音書 1:9-15

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つのすべての福音書は、イエスのバプテスマを伝えていますが、マルコの福音書は、イエスの洗礼の話で始まっています。イエスへの道が準備されたことが、マルコの福音書では、明らかに語られており、イザヤの預言「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」が満たされたことを伝えています。

バプテスマのヨハネは荒野で応答しました。ユダヤ全国とエルサレムからの人々に洗礼を授けていました。彼は、罪の赦しのための悔い改めを説き、人々は彼のもとへ、罪を告白しバプテスマを受けるためにやってきました。ここで、あなたは、ヨハネのように、人々を許しと洗礼へと招き、イエスへの道を整えるという働きをするのは、どのようなものであるかを想像できますか?

そしてイエスがガリラヤからやってきて、ヨハネによってヨルダン川でバプテスマを受けます。イエスが水の中から上がられた時、天から声がしました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」この瞬間にイエスは名づけられアイデンティティを与えられて、召され、神の子というタイトルをつけられたのでした。御霊が彼に降り、イエスは40日間、荒野に導かれて、サタンからの誘惑を受けられたのでした。当時、それは厳しいものであったでしょう。彼は、空腹で疲れていたところに誘惑をお受けになったのです。イエスが感じた孤独や疲労はどんなであったか想像がつきません。荒野からイエスが戻った時、彼は福音を宣べ伝えました。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(15節)これは、イエスが、洗礼を受け、名付けられ、天の御国のメッセージを宣べ伝える前に荒野に40日間送られるという数々の預言を満たした出来事でした。

なぜこれらの箇所が現在の私たちに大切なのでしょうか? 3つの理由があります。

  1. 教会カレンダーでは、レントのシーズンに入りました。これはイエスが荒野で過ごされた40日を意味します。
  2. これは、荒野を体験するキリストへの招きです。私たち一人一人が自分自身の荒野に気づき、キリストを求めるよう召されているのです。
  3. これは、断食し、祈り、悔い改めて他の人々を思いやる時です。そしてキリストのための道を用意し、イースターの出来事を覚えるために準備する時です。
  • レントとイエスとの40日間:

 レントは、私たちの生活の中の荒野に気づかせてくれる、教会カレンダーの中での美しいリマインダーです。聖徒の共同体として、個人、教会の体、キリストに従う者として、私たちの視線をキリストに合わせるための40日間です。マルコが語っているように、この40日間はイエスが荒野で過ごされた期間です。私たちの救い主と共に働き、同じ日々を経験するのです。私たちは同じように試みを受けるわけではありませんが、主の苦しみを思い、キリストに私たちの生活を向けて、自分の荒野を歩く選択をするための期間です。マルコが言うように、御霊が下って、イエスを荒野へと送りました。私たちは同じように送り出されるわけではありませんが、キリストが福音を宣べ伝え、贖いへと世界を変えるために準備をしたように、レントは、キリストの感情と生と苦しみを経験する美しい霊的訓練の期間です。

  • 荒野:

 イエスは、荒野へ導かれました。荒野は怖い所です。原語では、孤独、寂しい、荒涼とした、無人の場所という意味があります。イエスは、試みの中一人でした。イエスのように、今COVID-19や多くの社会的な規制が、ある種の荒野の中に私たちを置いています。私たちは、確かに孤独であり寂しさを感じ、家庭生活に制限を与えられています。イエスは寂しい荒野に送られました。そこで素晴らしい業がなされたと私は信じます。荒野を出て、戻られ、贖いと救いのメッセージを伝える準備がなされました。私たちの共同体への私の希望は、私たちがこの寂しく、孤独で、稀にみる状況の中でレントのシーズンを迎え入れ、キリストを求め、イエスが教えてくださった贖いの福音に生き、宣べ伝えるためのより深い準備を始めることができるようになることです。これは、多くの人にとって、容易ではなく痛みを伴う期間となるでしょう。しかしレントと今日のみ言葉は、イエスが体験された荒野での準備の期間を共に過ごし共に働くという招きなのです。

  • レントの因習:

 この40日には、多くの因習が埋め込まれています。多くの人々は、キリストの苦しみを共にするために、断食をします。イエスが荒野で飢えを経験されたように、生活の中で何かをあきらめます。それはチョコレートであったり、テレビであったりしますが、キリストを求めることから気をそらす物を断つのです。そうして私たちの目をキリストへと合わせるのです。ある人は、今年はCOVID-19のために多くの人が多くを失って大変であるから、自分に優しくするべきだと言います。しかし何かをあきらめるこの因習は、キリストへと向かう素晴らしい表現であり、イエスを日々生活の中で体験していく毎日のリマインダーとなり、このために私たちの注意を取り戻すことができます。

また多くの人々は生活の中で、違ったリズムの祈りを加えます。それはしばしば許しと悔い改めの祈りです。何を悔い改めなければならないのでしょうか? 誰を許さなければならないのしょうか? 許しを必要とする自分と周りにいる人々を許すということを積極的に求めていくいつもと違ったリズムの祈りを捧げる時、これらの40日間はどのようになっていくでしょうか? これは私たちが熟考と祈りに焦点を置き、悔い改めと許しに向かっていく素晴らしい期間です。

「施しを与える」という因習は現代では、他の人に焦点を当てるということです。世界の歴史の中でも今この時に他人に焦点を当てるということが難しいのはわかります。しかしどうしたら他の人の必要に気を配り、必要を満たすことができるでしょうか? 今あなたの周りで誰があなたの思いやりを必要としているでしょうか? そして何か独創的な方法でそれを満たすことができるでしょうか? 私たちの人生の中でも他の人を思いやるために、レントは良い時期です。

レントは、私たち自身を荒野へ導くためにデザインされています。それによってキリストの命を体験することができます。何かをあきらめ祈ることができるのです。このシーズンの中心は、キリストの復活の出来事であるイースターを迎えるための準備をすることと、この驚くべき贖いの出来事を人々に伝えることです。魂のこの暗い冬のシーズンは、準備の期間、創造主と親密になる期間です。そうすることによって、共同体に仕え、聖霊の働きを見たいという思いを起こさせます。

今日のマルコ福音書の箇所がそのような思いを起こさせますように祈ります。そして個人として、また全体としてこのシーズンを迎えることができますように。苦しみと孤独と寂しさのシーズンの中でも、共にキリストに向き、キリストがご自身を表わして下さるよう願いましょう。私たちの命が清められ許されて、地域のコミュニティーに福音をもたらす準備ができますように。祈祷書から祈ります。「ですからキリストの御名により、悔い改めによって、祈りによって、断食と施しによって、神の聖なるみ言葉を読み瞑想することによって、自分自身を振り返り、聖なるレントの遵守へとあなた方を招きます。そして正しい始まりのために、主の恵みのために祈りましょう。私たちがこのレントを忠実に守ることができますように。」