“Christ, the true Child of the Father”「キリスト:父の真なる子」

「キリスト:父の真なる子」

ルカ福音書15章11―32節

      March 20, 2022・CAN

Rev. Shihoko Warren

この話は、 有名な「放蕩息子」の話です。おそらく、皆さんも、今までに何度もこの話を聞いたことがあると思います。 多くの芸術家たちも、この「放蕩息子」の話に感化され、これを題材として作品を創作しています。オランダの著名の画家レンブラント(1606-1669) は、「放蕩息子」をテーマに、2点の絵を世に残しています。最初の作品は、画家として活躍し始めた20代後半の頃描いたものです。2点目は、晩年亡くなる前に描いたものです。(パワーポイント:今皆さんが見ている絵は、レンブラントが亡くなる前に描いた絵です)。 このように、「放蕩息子」の話は、時代を超えて、多くの人たちを惹きつけてきました。皆さんは、どうでしょうか。この話を、どのように受けとめていますか?

イエスは、このたとえ話を、当時の人々が蔑視していた徴税人や罪人と呼ばれる人たちとの集いのなかでしました。また、そこには「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしているイエス」を批判しているファリサイ派の人々や律法学者たちもいたと、ルカ福音書15章の冒頭は記述しています。(ルカ福音書15章1-2節) この話をしたイエスの心のうちはどのようなものだったのでしょうか?

私の回心したての若い頃は、このたとえ話を読むたびに、この弟に親近感がわき、自分とこの弟を重ね合わせて読んでいました。なぜなら、私も、この弟のように、10代の頃、とても反抗的な子どもでした。私の両親は、そんな不良で反抗的な私に心を痛め、本当に苦労したことと思います。このたとえ話の弟は、私やまたこの世の多くの方々の若かりし頃のように、奔放で、自己中心的で、幼稚で、不従順です。

回心してから10年、20年がたつとともに、私は次第に、このたとえ話の兄に目を向けるようになりました。この兄は、表面的には、父の家で忠実に働いている人に見えますが、魂の深い部分で、深刻な闇と歪みを隠し持っています。 心の最も深いところで、この兄は、父を信用しておらず、父の寛大な愛を受け入れることができずにいます。彼は、父と弟に対し、苦々しさ、嫉妬、恨みを抱いています。この兄は、霊において反抗的です。結局、「放蕩息子」とは、弟だけではなく、この兄でもあるのです。

私たちは、信仰生活の旅の途上にあって、この弟と自分を重ねる時期があり、また兄の霊的闇と自分の内にある闇を重ねて共感する時期もあります。しかし、残念なことに、多くの場合、この話の2人の兄弟と自分を比較したり、重ね合わせるだけで、それ以上の霊的探究はしないで終わってしまうのではないでしょうか。 聖霊は、私たちがより深く、よりはっきりとこのたとえ話の本髄をみるように、私たちを招いています。

どうかこのたとえ話のただなかに自分自身を置き、想像力を用いて観想してみてください。霊の目で、この話しには、実は、隠された第3の息子がいることに、あなたは気づきますか。 どんな時も父を信頼し、父の愛のなかに身を置き、父から決して離れずに、父と完全に一致している御子イエスの姿が見えるでしょうか。

レンブラントが晩年描いた「放蕩息子」の絵は、二人の息子たちと愛なる父の性質が実によく表現されています。   私はこの絵を見る度に、もし私にレンブラントのように絵を描く賜物があれば、ここに第3の息子、父の愛のなかにおられる御子イエス・キリストの姿を描きたいと感じています。

このたとえ話は、単に私たちが、弟か兄に焦点を当てて自己を振り返るためのものではありません。聖霊は、この話を通して、私たちが、父なる神の無条件の愛に出会い、また神の真なる御子イエス・キリストに出会うように招いているのです。 さらに聖霊は、私たちがこの神の子キリストの似姿へと変容する道へと私たちを導いておられます。

この話の弟も兄も、結局のところ、彼らのフォーカスは、常に自分自身にしかありません。彼らが最も気にかけているのは、自分自身であり、自分の安全、自己満足だけです。 彼らは、父の心の内や思いを理解しようとは決してしません。父が我が子に対して、どれほどの深い愛を持ち、愛するがゆえに、苦しみ、耐えて、いつも希望と喜びを胸に子供たちを愛し続けておられるかなど、彼らには見えていないのです。わが子どもがどんな状況にあっても、どんなに自分中心であっても、父の愛は無条件で、決して絶えることのない愛です! その愛は、何があっても、変わることがなく、 隔てのない真実の愛です!

御子イエス・キリストは、御父の心を深く理解しています。父の痛みは、イエスの痛みとなり、父の望み、忍耐、愛は、イエスご自身のものとなっているのです。イエスは、ヨハネ福音書17章でまさにこう述べています。「わたしの父よ。あなたは私にうちにおられ、わたしはあなたのうちにいます。わたしのものはみなあなたのものであり、あなたのものはわたしのものです。」(10&21節) イエスと父の間には、真の親密さと愛があるのが、はっきりわかります。

12歳になったイエスは、すでに「自分は父の家に属している」ことをはっきりと自覚していました。家族とエルサレムの神殿へ都のぼりをした際、イエスがいなくなったと思い探しまわっていた両親に、イエスはこう述べました。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ福音書2:49)

イエスは、全生涯を通して、いつも父なる神に全幅の信頼を置き、すべてのことに父なる神に感謝を捧げ、「アバ」という父への愛情込めた呼び方で、父なる神と正直に親密にいつも話し合っていました。

受難のただなかにあっても、御子イエスは、父なる神から決して離れることなく、神を信頼し、従順に神の愛のみ手にご自身を委ね続けました。ゲッセマネの園で、イエスは、苦しみもだえて、汗が血のしずくのように地に落ちながら、父なる神に祈りました。「わたしの父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、あなたのみこころのとおりにしてください!」(ルカ福音書22:22-44)と。 私たちは、この父なる神と御子イエスとの真実なる愛の関係を前に、ひざまつき、拝する以外ありません。

十字架の上で、イエスは、父なる神に放蕩息子・娘である私たちのために、執り成しの祈りをされました。「わたしの父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 (ルカ福音書23:34)

まことなる御子イエス・キリストを通して、私たち放蕩息子・娘たちの罪はすべてゆるされたのです!

失われた息子と娘であった私たちは、永遠に神の愛する子どもとされたのです!

私たちの主イエス・キリストは、父なる神と1つであり、父なる神も、イエスと一体です。さらに主イエスは、私たちをこの神の三位一体の愛の関係へと招き入れてくださっています!ヨハネ福音書でイエスは、十字架にかかる前夜弟子たちにこう述べています。「わたしは父のうちにあり、あなたがたはわたしのうちにあり、わたしはあなたがたのうちにいるのです。あなたがたは、全うされて父と子と一つとなるのです!」(ヨハネ福音書14:20、17:23) 御子イエス・キリストによって、私たちは神と完全に1つとされるという、なんという驚くべき恵みが私たちに与えられているのでしょうか!

私たちは、今、受難節(レント)にいます。受難節は、自己を振り返り、神に悔い改める大切なときであると私たちは聞いています。しかし、正直言うと、時々私は、この受難節を皆さんに勧めることを躊躇する気持ちがあります。なぜなら、表面的な理解や誤解が生じやすいからです。人々が、ただ単に自分自身だけに焦点を当てて受難節を終わらしてしまう危険性を感じるからです。レントの期間、何て自分は罪深いのか、何て自分は悪いのか、ただそれだけに焦点を当ててしまう恐れがあるからです。それは、本当のレントではありません。本当の受難節は、私たちが神の無条件の愛に出会い、神の真なる子イエス・キリストに出会うことです。受難節は、イエスが私たちに語られた「イエスは父のうちにおり、父はイエスのうちにおり、イエスは私たちのうちにおり、私たちは、完全に神と1つとされる」ということが一体どういうことなのかを経験する重要な機会なのです!

ヘンリ・ナウエンの抜粋を読んで終わります。

「わたしたちの生涯は、イエスの生涯と一致するように召されています。イエスのミニストリーの目的は、失われた私たちを父の家に連れ戻すというものです。イエスは、私たちを罪と死の縄目から解放するためだけに来られたのではなく、さらに、私たちをイエスと父なる神の親密な関係へと導くために来られたのです。私たちはイエスと私たちの間には、大きな距離があると考えてしまいがちです。なぜなら、罪深い私たち人間が、全知全能の神に近づけないと感じてしまうのです。しかし、このように考えるとき、私たちは、御子イエスがご自分の命・ご自分の生涯を、完全に私たちと分かち合うために来られたという真理を忘れています。イエスは、神の愛なる家庭へと私たちを連れ戻すために来られたのです。イエスのものすべては、私たちのものとなったのです。イエスが行うすべてのことは、私たちも行うことなのです。」

父と子と聖霊に栄光がありますように! アーメン