Bishop Charlie’s Easter Message

イースターメッセージ

マルコの福音書 16:1-8

チャーリー・マスターズ主教

イースターのお祝いを続け、マルコの福音書16章1~8節を見ていきます。祈りましょう。
私の口から語られる言葉と私たちの心の黙想が、あなたの目に受け入れられますように。
私たちの力であり、贖い主である主よ。アーメン

友である皆さん、十字架につけられ、死から蘇られたイエスについて話すことができるのは、私にとって特権であり、大きな喜びです。これは、単なる架空のことではなく、また単に私の仕事であるからでもありません。これは、私の人生に来られた主イエスによって、私が発見され助けられたというとても個人的なことであるからです。そして私は、イエスがして下さったこと、そしてイエスがイエスであられることによって、天国を楽しみにしています。

私は幸い生まれた時から家族の中で、主イエスについて、十字架や蘇りについて、大人たちが話している家庭で育ちました。しかし私は、絶対的で明らかに主イエスを愛し信頼していた両親や姉たちとは違いました。私は5人兄弟の末っ子でした。私はおそらくこれらのことを信じていたのだと思いますが、無関心でした。成長して12歳になった時、その頃は、Walton家族のようにみんな一緒に一つ屋根の下に住んでいましたが、母方の祖母が亡くなりました。彼女は信者で、事実天国についていつも私たちに話してくれました。そして亡くなるその日、彼女は、主イエスのもとへ行くと母に話しました。具合が悪く、夜には病院へ運ばれ、まもなく召されたのです。それは夏に起こったことで、教会の牧師は休暇中で、私たち家族の知らない代理の牧師が、祖母の葬式を執り行ったのでした。私が覚えているのは、初めて死を間近にして少しナーバスであったことです。この見知らぬ牧師が1962年版の祈祷書の葬送の箇所から、これらを読んでいるのを聞きました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11. 25, 26) 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ 14. 1, 2) それはまるで保証の言葉をイエスご自身から聞いているようでした。それはイエスの約束であり、きっと天国にいる祖母にも適用し、祖母だけではなく自分にも、そして他の人にも適用するのではないかと思ったのでした。

ですから友よ、十字架につけられ蘇られた主イエスについて語り、神のみ言葉を開くよう求めることは私の仕事です。なぜなら私自身が信仰によってイエスを知り、これが私の持っている唯一の資格であるからです。他のことはすべて、私の主であるキリスト・イエスを知る卓越した価値を考えると、あなたが想像する私の他のすべてのことは、何ものでもありません。事実、パウロも他のすべてのことは塵であると言っていますが、私もそのように感じます。ですから完全な人として死んだお方、残酷な十字架につけられ死に、死から復活された神の一人子イエスについて語ることは、私の喜びであり、特権であり、これを友であるあなたに、そしてあなたの知る人に捧げ、愛します。なぜなら愛もあなたのためだからです。

マルコの福音書16章は、復活した主イエスについての説明です。おそらく最も簡単でわかりやすいものでしょう。マルコは、多くの叙述的な言葉を使っていません。例えば、み使いについてです。実際私が特に皆さんにお伝えしたいのは、女性たちが墓に来て見つけた時に出会ったみ使いからのメッセージについてです。16章5節から、それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスをさがしているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへいかれます。前にいわれたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」

この箇所から4つのポイントをお話しします。

  1. み使いは「驚いてはいけません」と告げた。
  2. 十字架につけられたナザレ人イエスをさがしているのでしょう。あの方はよみがえられました。
  3. ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
  4. お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへいかれます。前にいわれたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。

さて、み使いが話している人々とは誰でしょうか? マルコの15章の最後から記されています。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤがイエスの納められている所をよく見ていた。さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入り口からあの意思をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。

これらは、イエスが十字架につけられた時にいた女性たちです。彼女たちは、イエスが最後に彼の霊を渡して息を引きとった時にそこにいました。アリマタヤのヨセフがピラトから、イエスの体の下げ渡しの許可を得、遺体を取り下ろして丁寧に処置し、岩を掘って作った真新しい墓に納め、墓の入り口の溝に大きな石をころがして置いた時もいました。彼女たちは、この一連のことを見た後、耐え難い思いで安息日を過ごしたことでしょう。過ぎ越しの祭りの後の安息日が明けるまで、何もできませんでした。ですから週の初めの最初の日の早朝、愛する友であるイエス、メシアだと信じていたお方の遺体に塗るための香料と香油を買い求め、墓に向かってとぼとぼと歩きながら、あの大きな石をどうやって動かそうか、だれか助けてくれる人がいるだろうかと話しながらやって来たのでした。そして彼女たちは、石が転がすされているのを見て、一瞬喜び、しかしすぐに「どういうことでだろう?」と思って墓の中に入ってみると、イエスの遺体がそこにないのを見て、驚いたのです。み使いが驚いてはならないと言ったのは、この時です。

マルコは、青年と述べていますが、マタイはこの青年を「その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった」と述べ、み使いとはっきり言っています。女性たちは、驚きました。驚いて当然です。彼女たちは、これまでキリストの十字架までのすべてのことを体験してきたのです。そして希望がなくなった後もイエスへの愛ある行為をしたいとやって来たのです。しかしその希望もなくなってしまったのです。女性たちは戻り、マグダラのマリアがシモン・ペテロとイエスが愛された、もう一人の弟子とのところに来て、「誰かが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」と言いました。これが女性たちの反応であり、彼女たちはあらゆる点で警戒を感じていたので、み使いは、「親愛なる女性よ、驚いてはいけません。」と言ったのです。

2つ目のポイントは、「十字架につけられ、よみがえられたナザレのイエスを探しているのでしょう。」最近、私はある礼拝で、宣教師を目指しているノルムとオードリー・ヘンダーソンをインタビューしているのを聞きました。ノルムはITで働き、オードリーは、ヘルスケアで看護の仕事をしていますが、彼らが本当にしているのは、キリストへ人々を導き、教会を開拓することでした。ノルムは、彼らが経験しているキリストへの素晴らしい方向転換について、ここカナダで私たちにアドバイスはないかと質問を受けた時、「シンプルに福音の良い知らせを話すことです」と答えました。そしてそれは、パウロが第一コリントの15章で語っていることです。「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」(1~4節)それがみ使いが、十字架につけられたナザレのイエスを探しているなら、驚いてはならないと言ったことなのです。イエスが死んだことは、事実です。しかし彼はもう死んではいません。香料を塗る体はありません。なぜなら彼は死からよみがえり、もう再び死ぬことはないからです。結果としてすべてが変わりました。あなたはナザレのイエスを探しているのなら、よかったです。彼は、十字架につけられて確かに死にました。しかし今彼は生きています。死からよみがえり、もう死ぬことはないのです。

第3に、「ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」私は、ここが大事だと思います。なぜならこれらの女性たちは、墓がどこであったのかを注意深く記していたからです。彼女たちは、イエスの遺体が取り下ろされた時も、それが移された時も注意深く記していました。ですから日曜日の朝、起きるとすぐに墓へ向かいました。み使いが、ここに彼が横たわっていた所と言われても、そう、そこが彼がおかれた所だとわかっていました。しかし今、彼は死からよみがえったのです。ここが本当に大事なところであることがわかりますか? なぜならその信じる者たちは、死んだイエスが死からよみがえったと説得されなければなりませんでした。そしてその起こったことを理解することは、必要不可欠なことであったのです。さまざまな記録で、イエスは彼の手を見せたり、魚を食べたり、他のことをして、彼が死から本当に復活したことを理解させる助けをしています。そしてみ使いもここにある証拠を見なさいと言って、同じことをしています。パウロは第一コリント15章の続きで語っています。「また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」(5-8節)ここは本当に大事です。これは本当に起こったことです。私は、祖母の死を思う時、彼女が天国にいることに自信があります。これは、イエスが死に、よみがえったという事実に基づいたことです。

第4に、み使いは、「お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへいかれます。前にいわれたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」と言われました。これは、み使いが女性たちに、福音を伝えながら、導いている素晴らしいところです。イエスに起こったこと、彼が死に、彼は罪のために死ななければならなかった、しかしイエスは死からよみがえって、もう再び死ぬことはない、それがあなたたちにとっても、使徒たちにとっても、ペテロにとってもすべてが変わったのだと伝えています。イエスを知らないと3度も否定したペテロでさえも。この福音書の筆者であるジョン・マルコは、この赦しと新しい命は、ペテロのためでもあると明らかにしたかったのです。

友よ、み使いが言った「行って弟子たちに伝えなさい」は、全世界に向けられたメッセージです。世界は、壊れ、暗く、恐れに満たされ、死を知っています。罪や死、裁き、悪魔の領域にいるサタン、これらの問題は、十字架と復活によって、解決されました。ですからみ使いは、出て行きなさいと言ったのです。ハレルヤ!

友よ、これはあなたのため、あなたの家族のため、家族の家族ため、教会の家族のため、あなたの隣人のため、共同体のため、あなたが代表するグループのため、世界の国々のため、すべての人のためです。この知らせはうまく働き、すべての人のためのものです。ですからあなたの周りのすべての人に伝えましょう。しかしまずあなた自身が受け取らなければなりません。私の人生にも起こりました。祖母の葬式の時に聞いたメッセ-ジの数年後に、主イエスを私の人生にお招きしました。そしてこの冒険を始めたのです。あなたにもこれを差し出します。うまくいきます。イエスは良いお方です。主を讃美します。

主イエスに祈りましょう。私たちはあなたを愛しています。私たちは、あなたの十字架と復活ですべてが変わったこと、そしてこの壊れた世界で私たちすべての人があなたを必要としていること、しかし福音は、十字架につきよみがえった主イエスの良い知らせを信じる人にとって、救いのための神の力であることを知り、み前に立ちます。ですから今、これを見ている愛する人々、彼らの家族、共同体、教会の家族、そして国々をあなたに委ねます。主よ、十字架と復活のイエスをもとに、リバイバルがありますように祈ります。アーメン